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2008/04/06 モスタル:カラジョズベゴヴァ・ジャミヤ 2 (+ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史 2)
無骨なシャンデリアの下がるドーム。
中央のアラビア文字はコーランの一節か何かだろうか。
壁面にある紋章のような文字は歴代スルタンの花押(サイン)。
カラジョズベゴヴァ・ジャミヤとは、「カラジョズ・ベイのモスク」という意味。
「カラジョズ」は、おそらく人名。誰かはよく知らない。
「ベゴヴァ」は「ベイ」の所有格・・・かな?・・・多分。
「ベイ」とは何かというと、これはいわば「長」という意味で
オスマン・トルコ時代の役職や社会的地位などを示す単語。
ベイレル・ベイ(州知事)やサンジャク・ベイ(県知事)などのような
地方行政長官の役職名のほか、
小作人を有する「地主」という意味でも用いられていた。
こうした「ベゴヴァ・ジャミヤ(ベイのモスク)」は、16世紀ごろから
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ各地で建造され、
時を経るにつれイスラム教への改宗者も徐々に増加していった。
2005年8月27日
さて、ではボスニア・ヘルツェゴヴィナ史の続き。今回はオスマン帝国時代。
【オスマン帝国時代】
1463年から1878年までの約400年間、
この地はオスマン帝国の統治下に置かれる。
この時代において特筆すべきことは、いうまでもなく
大量のイスラム教への改宗者を出したことだろう。
同じくオスマン帝国領となっていたバルカン半島一帯の諸国の中でも、
ボスニア・ヘルツェゴヴィナではその傾向が顕著である。
オスマン帝国の宗教政策も原則的には寛容で、
カトリックもセルビア正教もユダヤ教も社会的・法的に認知されていた。
キリスト教会の修復や設置には特別な認可を要するといった制限や
イスラム教徒への優遇措置などは設けられたが、
「コーランか剣か」などといった強圧的な改宗を迫るものではなかった。
しかし、ボスニア王国時代の宗教政策によって、
カトリックとボスニア教会の間で揺れ動いていたカトリック系キリスト教徒は、
特に地域的・宗教的な共同体を作ったり、その恩恵に浴するといったことがなかったため、
明確な信仰や宗教への帰属意識を醸成することがなかった。
こうした背景から、段々とボスニア教会やカトリックの信者はイスラム教へと改宗し、
ボスニア教会に至ってはオスマン帝国時代の初期に消滅してしまう。
一方、セルビア正教会では、特にヘルツェゴヴィナ地方で
すでに独自の地域的・宗教的共同体を形成していたことや、
正教会の総主教座がイスタンブールにあり
オスマン帝国の組織図に組み入れやすいということで
カトリック信者よりも社会的に優遇される場面もあったことから、
彼らに比べると改宗者は少なく、セルビア正教へ改宗するカトリック信者もあったらしい。
とはいえ、オスマン帝国が諸宗教の信仰に干渉することはなくとも、
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政に携わる立場にはムスリムのみが登用されるなど、
社会的な権限においてキリスト教徒が大きな制限を受けたことに変りはない。
オスマン帝国の統治下における社会的階層は、「どの宗教に属するか」によって
ほとんど機械的に分類された。
こうして支配者層にムスリム、小作農・農奴にキリスト教徒という
宗教間での社会的・階層的格差が定着していくにつれ、当然のこととしてムスリムに対する
キリスト教徒の不満は募っていく。
(ちなみに、オスマン帝国時代末期(19世紀半ば)の宗教別人口でみると、
ムスリム:約50万人、セルビア正教会:約45万人、カトリック:約20万人、ユダヤ教:約3千人
となっている。)
やがて19世紀に入ると、こうした域内事情の他、
オスマン帝国の弱体化や、ヨーロッパ各地で起こり始めた民族主義の潮流、
ロシア帝国やオーストリア・ハンガリー帝国といった列強諸国の動向など、
多様な要因が絡み合う中でオスマン帝国時代は終焉を迎えることになる。
1875年、衰退期のオスマン帝国が求心力を失いつつあった頃、
小作農のキリスト教徒を中心とする大規模反乱(ボスニア蜂起)が勃発する。
これに先駆けてオスマン帝国に対し自治権拡大運動を展開していたセルビアは、
大セルビア主義を掲げ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ内のセルビア人勢力に加勢し、
1876年には隣国モンテネグロとともに独立を求めオスマン帝国に宣戦布告。
これらの動きは一旦鎮圧されてしまうものの、
黒海・地中海沿岸の不凍港を求め南下政策を進めていたロシア帝国が
汎スラヴ主義を提唱し、セルビアやブルガリアを支援する形で
1877年にオスマン帝国へ宣戦布告。露土戦争が始まる。
これによりボスニア・ヘルツェゴヴィナ一帯でのオスマン帝国の支配力は一気に低下していく。
1878年にはロシア軍がイスタンブール近郊まで迫る勢いをみせ、
その5月、ロシアとトルコはサン・ステファノ条約を結び停戦。
オスマン領土だったバルカン半島東部の広大な地域に
スラヴ人の独立国、大ブルガリアが建国される。
そして、このロシアを始めとする東ヨーロッパのスラヴ人勢力拡大に懸念を示したのが
イギリス、フランス、そしてハプスブルク家率いるオーストリア・ハンガリー帝国である。
とりわけ、オスマン帝国との攻防を数世紀に渡って繰り広げてきたオーストリア・ハンガリー帝国にとって、
ボスニア蜂起に端を発した一連の動向は、
バルカン半島からオスマン勢力を退けるチャンスであると同時に、
ロシア帝国を始めとするスラヴ人勢力からの新たなる圧迫を被るピンチでもあった。
列強諸国は欧州全域の勢力均衡を図るという名目で1878年6月にベルリン会議を開催。
ここでオーストリア・ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴヴィナ一帯の施政権を獲得し、
長きに渡るオスマン帝国時代の幕が下ろされた。
これ以降、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは激動の時代を迎えることになる。
<続く>
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