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2004/05/27 ヴェネツィア:学校に行こう! +映画『パッション』に寄せる駄文
バス停の脇に止まっていたスクールバスのイラスト。
有翼の獅子は、ヴェネツィアの守護聖人聖マルコのシンボル。
転じてヴェネツィアのシンボルでもある。
そこで、イエスは彼に言われた、
「あなたの剣をもとの所におさめなさい。
剣をとる者はみな、剣で滅びる。」
マタイによる福音書 第26章52節(出典:日本聖書協会、1963年 以下同)
…あの国の大統領がクリスチャン?マジで?
2003年2月7日
『パッション』にこのシーン、ありましたね。
セリフとして出てきたかはうろ覚えですが、イエスが逮捕される場面。
ついでながらあの映画によせて取り止めもなく。
私はキリスト教徒ではなく、特定の宗教を選別して信仰する者でもないから
イエス・キリストという人物に格別の神性を認めているわけではない。
また、聖書学者でも何でもないので
彼が果たして、旧約聖書のなかで預言された真のメシアであったかどうかも知らない。
だから、キリスト教徒や神学の素養を持つ人ほどの感銘を受けるわけでもなく、
ただ残虐シーンに目を見張ったのだろう・・・
と、思われても仕方がないとは思っているが、決してそれのみにあらず。
あの映画を見て私が思い出したのは、大江健三郎。
政治的な立場を保持される方は、ちょっとこの名前をみて怪訝にされるかもしれませんが
小説のほうの話ですので暫しご海容ください。
『燃え上がる緑の木』でのやりとり。
ある集団から「救い主」として見なされてしまった登場人物「ギー兄さん」が
そのように振舞おうと努め続ける中、ある記者が詰問する。「あなたは救い主ですか?」
彼は応える。
−現にいま、私は「救い主」ではないでしょう。しかし、やがて必ず来る「救い主」に
繋がる人間でありたいと望んでいます。(中略)あなたは、「救い主」に、繋がる、
人間、となることを、望み、ま…せ…ん…か?
そのようにおぼつかない、電池の切れかけた旧式の録音機のような話し振りで、
ギー兄さんは、問いに答えるよりもむしろ自分自身に問いかけるふうだった。
(『燃え上がる緑の木』第三部、新潮文庫、p.360〜361)
大江の作品(とりわけ後期)に著されるテーマの一つは、
「○○として振る舞い、自らをそのように仕向けるよう努める人間」であると思う。
「にせの救世主である」と自認しながらもなお「救い」(あるいはそのようなもの)に関ろうとする
登場人物は多く描かれている。状況を異にするが『万延元年−』『宙返り』など枚挙に暇がない。
周囲の、また自らの希求する人物像たろう、なおかつ、自己自身に正直であろうとする望みを抱く彼らは、
それゆえに多くの矛盾に追い込まれ煩悶する。その中で、もがいた末の「言葉」を口にする。
安易な言い方で忸怩たる思いだが、そのように描かれた登場人物群に私は
少なからずのシンパシーを感じてきたし、励まされてもきた。
私自身の話をすれば、私は人見知りが激しく、どちらかといえば内向的で、
その癖に知性に欠けた人間だ。
外で快濶に飛び回るよりも家の中で自堕落に過ごすのが好きな人間だ。
(「わたしは病的な人間だ…わたしは意地悪な人間だ。わたしは人好きのしない人間だ。」
などという文言で始まる小説があるが、この一文は常に私のうちにある。)
少なくとも私はそう思っているし、またこれを克服したいとも望んでいる。
だから私は、そうでないかのように振る舞うことを自らに課してきた。
「つまり、それ(私の振る舞い)ってウソなんでしょ?」と、問われたならば
「現にいま、ウソでしょう」としか、私には答えられない。
このコーナーで、旅行先での見知らぬ人たちとのやりとりなどを紹介したりして
さも「気さくな人間」であるかのように見せかけているが、それはウソだ。
描いた出来事は全て事実だが、その現場において私が常に平常心であったわけではない。
しかし私は、自身のそのような内情を、文体によって隠そうとしてもいる。
ヨーロッパの美しい街並みを撮影して回るのは大好きだ。
満足のいく写真が撮れたときには、ある種の自信が沸き立つ。
でも、見知らぬ人ばかりの街に出て行くのは、いささか心臓に負担の掛かる行為でもある。
そのような己を克服すべく、また
それを為しえた、という実感・喜びを得る瞬間の為に、私は旅に出るのかもしれない。
大江自身、早熟な内に小説家として高い評価を受けたがゆえに、それに見合うべく
どのように自らを動かしめてきたかを、多くのエッセイに描いている。
私と大江とでは、その実績・人格・知性等あらゆる面において
雲泥の差が有り余り過ぎてなお余り有るのは明白だが、
彼が描き出してきたそのような人間像には、そう。励まされてきた。
話をキリストに戻そう。
やがて来る磔刑の宿命に、彼は煩悶し恐れをなした。十字架の上において、彼は叫んだ。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(中略)
わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」
マタイによる福音書 第27章46節
このシーンは、『パッション』でも克明に描かれている。
非キリスト教徒は、この言葉を引き合いに彼を安易に否定したりもする。
「彼自身、神への信仰を損なったではないか」と。
しかし、彼が真の救世主でなかったとして、それがなんであろう?
旧約の預言を背負う者として自らを奮い立たせた
一人間として彼を捉えてみるだけでも、この男は相当のものだ。
聖書の言葉は成就されねばならない
マルコによる福音書 第14章49節
偏に彼の信念はここにあった。少なくとも私はそのように彼の言行を読み取る。
十字架の上、喉の渇きを訴えた彼の口に「酸いぶどう酒」がもたらされる。
(これに関わりがあると思われる記述をエレミヤ書だかで見かけたのだが、再確認不能)
そして彼は死の前に洩らす。「神の御業は成就された(映画中)」
そののち、イエスは今や万事が終わったことを知って、
「わたしはかわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。
(中略)
すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終わった」と言われ
首をたれて息をひきとられた。
ヨハネによる福音書 第19章28〜30節
その生涯を賭けて、彼は自他の望む役割を演じきったのだと思った。
彼が本物か偽者か。
私は信徒でないだけに、そんなことは殊更どうでもよいことだ。
実在したか否か。これとて
歴史家でもない私には、(興味はあるものの)然して意味のない問いでしかない。
ただ、このような人物の物語が語り継がれてきた、それだけで充分だ。
我々は、我々自身と、その隣人の望むがごとく振舞うことに臆してはならない。
理想に近づけるための勇気と実践を、損なってはならない。
私はすでに、彼の「受難」を見てしまったのだから。
なんちゃって。言うのはタダだもんね(禁じえぬサタンの囁き…?)。
ついでにもう一つ思い出したこと。ユダについて。
そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
マタイによる福音書 第27章5節
ウンベルト・エーコの『前日島』に、裏切り者のユダが登場するシーンがある。
(図書館から借りて読んだので手元にない。記憶に頼るしかないのが無念。)
作中、ユダは永遠に絞首の苦しみを味わい続ける場に置かれながら、
次のようなことを口にしたと記憶している。
「私は永遠にこの苦しみを受け続けねばならない。
そうでなければ、キリストが十字架の上で達成した原罪の浄化を損なわしめてしまう。
神の、キリストの御業が完遂されたことを保証するために、
私は裏切り者としてずっと、ここで首を吊ったまま留まらねばならないのです」
「救いに繋がる」とは、一様のことでは語りえない。
「よろしい。それでは私は、地獄に行こう」とは、誰の何という詩であったか。
そして、未熟で頼りない我々にもまた、人々の「救いに繋がる」道が
残されているのかもしれない。いや、知らんけど。
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