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2008/03/25 移動中:山城 (+ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史 1)
内陸へと入るに連れて地形は複雑になっていく。
緑に覆われた石灰岩の山並みの中、
幾つものトンネルを抜け曲がりくねった道を進む。
急に開けた視界の向こうに、堅牢な城壁を真夏の太陽に晒した城跡が見えた。
いつ頃の建物だろうか。見当がつかない。
日本で国道沿いの山中にお城(のような建物)が見えれば
それが何であるかはアタリがつくのだが、まあそんなことはどうでもいいか。
2005年8月26日
さて、次のモスタル到着後の写真までの間、
少しボスニア・ヘルツェゴヴィナという国について予習をしよう。
まずは「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」という国名だが、
これは単純にここ一帯の地域名である。
逆三角の国土の北部、ボスナ川流域一帯のボスニア地方と
南部のヘルツェゴヴィナ(旧名:フム)地方の名称を繋げたもの。
今回訪れるモスタルはヘルツェゴヴィナ地方の町だ。
バルカン半島の国々は、歴史上
常に周囲の列強勢力の拮抗に翻弄されてきた。
ここボスニア・ヘルツェゴヴィナは、旧ユーゴスラヴィア諸国の中でも
そうした複雑な歴史的背景がとりわけ凝縮された国と言えるだろう。
他の旧ユーゴ諸国(スロヴェニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、コソボ*)は、
大体において各民族単位で形成されているのに対し、
この国には大きく分けてセルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人という
3つの異なるアイデンティティを持った人々(少数だがユダヤ人もいる)が住んでおり、
現在はセルビア人を中心としたスルプスカ共和国と
クロアチア人・ボシュニャク人を中心としたボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦という
二つの国からなる多民族連合国家として成立している。
それぞれの違いを整理すると大体こういうふうになる。
・セルビア人・・・宗教:セルビア正教、言語:セルビア語(キリル文字)
・クロアチア人・・・宗教:カトリック、言語:クロアチア語(ラテン文字)
・ボシュニャク人・・・宗教:イスラム教、言語:ボスニア語(ラテン文字)
とはいえ、セルビア人とクロアチア人は元々同一のスラヴ系民族だし、
ボシュニャク人はボスニア領内に住む南スラヴ系ムスリム(イスラム教徒)のことであって
民族的な括りとはまた別物と捉えなければならない。
多民族国家とはいっても、それが単なる血統・人種的な意味での「民族」ではないところに
ボスニア・ヘルツェゴヴィナという国の複雑さがある。
それぞれの用いる言語は、表記する文字の違いがあるものの
いずれもスラヴ系言語であり言語学上の大きな差はないらしい。
隔たりが生じるとすれば信教と、
幾多もの反目と融和の繰り返しの中で醸成されたそれぞれの歴史認識、
そして、「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」という
地域に対して抱く思い入れにあると言えるのかもしれない。
彼らはどのような歴史を経て今に至るのか。
この国の成り立ちを数回に分けて振り返ってみよう。
【黎明期】
紀元前1000年頃、バルカン半島西部一帯にイリュリア人(アルバニア人の祖先とさる)が定住。
その後は紀元前1世紀頃から古代ローマ帝国による支配が始まる。
そして、紀元後6〜7世紀にはスラヴ人が入植・定住するようになる。
古代から中世初期までにかけての詳細はよく分かっていない。
9世紀頃からはビザンチン帝国の東方正教会とローマのカトリックが
バルカン半島一帯での教線拡大を狙って布教師を送り込み、
正教会はセルビア、ブルガリア、マケドニアなどの東側に、
カトリックはクロアチア、ダルマチア地方などの西側に定着したが、
この地域一帯にはいずれもあまり深く浸透することはなかった。
当時のボスニア・ヘルツェゴヴィナは、二大勢力の間に横たわる
無人の山岳地帯といった状態だったようだ。
【中世初期】
10世紀前半から12世紀初頭にかけて、ボスニアの領有権は様々な国の間を移行する。
セルビア公チャスラヴを皮切りに、960年頃からはクロアチア王クレシミル2世、
997年からはブルガリア皇帝サムイルの支配下に置かれる。
1081年にはビザンチン(東ローマ)帝国がブルガリアを併合、これに伴い
ボスニアもビザンチン領へと組み込まれ、やがて周辺国のクロアチアや
ドゥクリャ(現在のモンテネグロあたり)などに分割統治される。
その後まもなくハンガリー王国が北から攻め入りボスニア全土を併合するが、
ビザンチン帝国も負けじと押し返す。両国の間で幾度か領有権が交互に入れ替わり、
1180年に勢力を盛り返したハンガリーがようやくボスニア地方の宗主権を獲得する。
一方、フム(後のヘルツェゴヴィナ)地方は1168年からセルビア・ネマニッチ王家出身者を
首長として迎え、以降セルビアの影響下に置かれることになる。
こうした様々な外界からの支配者がボスニアを領有してきたが、
結局のところほとんどの場合は名目上のことで
この地に住む人々へ直接的な影響力を与えるには及ばなかったとされる。
これもまた、カルスト地形の山並みが続く複雑な地形によるものであった。
交通のあまりの不便さが、外界からの実効支配を阻むとともに、
ボスニア各地の伝統を育み、守ったともいえる。
しかし、その地形ゆえに中央集権国家の成立が困難となったことも、
後々の展開を見るうえで見逃すことができない要素といえるだろう。
この頃になると主にボスニア地方ではローマ・カトリック圏、
フム地方はセルビア正教会圏へと組み入れられるようになっていた。
【ハンガリー王国時代】
さて、ハンガリー王国がボスニアの宗主権を得て後も
それはやはり名目上のことに過ぎず、
実質的には「バン(首長、太守の意)」の称号を名乗るボスニア貴族が支配しており、
ハンガリーからの独立を求める機運の高まりも見逃せないほどになっていく。
こうした動きに対抗し、宗主国としての行使力を強化するべくハンガリー王は一計を講じた。
ローマ教皇に「ボスニア領内のカトリックは異端の信仰を説いている」と吹き込み、
十字軍の支援を受けてボスニアへと攻め込む。
1235年から6年間をかけての攻撃だったが、山並みに遮られ進行は遅々として進まず、
本国がタタールの攻撃を受けたことなどから撤退を余儀なくされる。
そこで今度は教会のネットワークを用いる手に打って出た。
ドゥブロブニク大司教区に属していたボスニアのカトリック教会を
ハンガリー大司教区に移管してしまおうと目論む。
するとボスニアのカトリック信者は「やってられるか」と反発。
カトリックとの関係を断ち、ボスニア教会という独自の教会を作り上げてしまう。
この教会の教義内容は、当時異端とされたネオ・マニ教や
ブルガリアのボゴミール派などに類する
二元論的世界観が中核となっていたというのが定説とされているが、
それを明確に確認するに足る文献は見つかっておらず、
政治的な意図からのレッテル貼りだったとも言われる。
ただ、当時のこの地の信仰というのは、教義に対してはかなりいい加減なところがあり、
信者の中で読み書きの出来る人自体あまりいなかったことから、
教義理解・解釈上の誤りを指摘される余地は充分にあったことも
想像に難くない状況だったという。
【ボスニア王国】
こうして自治権を維持していたボスニア国家は14世紀初頭、
当時のバンであったスチェパン・コトロマニッチの下で強大化する。
彼はハンガリー王国とも同盟国として振舞うことで関係を改善し、その支援を得て
北西部のクロアチア人諸侯領や南部のフム地方などのセルビア人諸侯領を併合。
銀や鉛の鉱山開発などにも着手した結果、経済的にも発展し
対外的な通商ルートも出来始めた。
従来からボスニア教会に寄せられていた異端の批判を解消するため、
今度はカトリックのフランチェスコ修道会を招き修道院や司教代理区を設置、
コトロマニッチ自身も改宗する。これに伴い、
再び多くのカトリック信者がボスニア内に現れるようになる。
とはいえ、彼の宗教政策は寛容だった。
従来のボスニア教会はほぼ放置状態で、
新しく併合したクロアチア人諸侯領のカトリック大司教区も
フム地方のセルビア正教会教区もそのまま残した。
しかし実際は、「寛容」というよりは「無頓着」に近かった(要は面倒くさかったのだろう)。
この強大化を礎に、コトロマニッチの孫トヴルトコは
アドリア海沿岸部のダルマチア、フム地方全域まで更に領地を拡大し、
首長の称号「バン」を「王」に変更。ボスニア王国が名実ともに成立する。
15世紀に入ると、ボスニア王国内の政治は王族と貴族の権力争いで混乱に陥る。
ハンガリーとの関係もぎくしゃくし始めた折、
東からはオスマン・トルコの強大な圧力が迫ってきていた。
既にオスマン帝国の侵攻に喘いでいたセルビアから
大量のセルビア人がボスニア東部に亡命し、セルビア正教徒の人口も増加した。
因みにこの頃のフム地方にいたセルビア人将軍ステファン・コサチャは、
ボスニア王国から与えられた「将軍(ヴォイヴォダ)」の称号を捨て
セルビア正教の聖人・聖サヴァにあやかり「聖サヴァの公爵(ヘルツェグ)」と名乗る。
このことから彼の領地であったフム地方は「公爵領(ヘルツェゴヴィナ)」と呼ばれ、
これ以降のオスマン帝国時代から現代に至るまでこの地名が用いられるようになる。
オスマン侵攻の激化に伴いハンガリーやローマ教皇に支援を求めたところ、
その条件として、かねてより問題視されていたボスニア教会を解散させ
カトリックの信者に組み込むことを提示され、ここでボスニア教会は弱体化する。
しかしそうした取引も虚しく、オスマン帝国は徐々に攻略を進め、
1463年には最後のボスニア王ステファン・トマシェヴィチ斬首、1481年に最後の砦も陥落し、
これから1878年までの約400年間に渡るオスマン・トルコ統治時代が始まるのであった。
<続く>
*コソボ住民の9割近くはアルバニア人。
2008年2月17日、コソボ暫定政府はセルビア共和国からの独立を宣言し、日本はこれを承認。
3月現在で他にアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランスなど二十数カ国が承認しているが、
ロシアやスペインなど国内で独立運動が行われている国々は拒否。
国連はロシアの拒否権により、EUは加盟国スペインやキプロスの反対により
承認することができず、重大な局面を迎えている。
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