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2008/06/27 モスタル:月と星 (ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史 3)


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ティタ通り沿いのモスクにて。
噴水の石柱に穿たれたトルコの紋章。
高く昇った太陽が、微細な凹凸の陰影を映し出す。

2005年8月27日

さて、随分久しぶりの更新になってしまったわけだが
始めた以上止める訳にもいかないのでボスニア史の続きを・・・

【オーストリア・ハンガリー帝国時代】
1878年7月。オーストリア・ハンガリー帝国はベルリン会議の調印を受け、
即座に大規模な軍隊を派遣し、占領政策に打って出る。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのカトリック勢力はこれを歓迎したが、
社会的失墜を被らざるを得ないと考えたムスリムと一部のセルビア人は徹底抗戦。
余りにも多勢に無勢であったが、彼らは山岳地帯に立てこもりゲリラ戦を展開。
全域の実効支配に至る19世紀末まで、地域的かつ散発的な戦闘が行われた。

しかし、結局のところオーストリア・ハンガリー帝国のボスニア政策は、
基本的にオスマン帝国時代の制度を引き継ぐことになる。
キリスト教徒に課されていた社会的な制限はもちろん緩和されたが、
社会体制として大きな変化はもたらされなかった。
長きに渡って根付いてきた統治体制を改変することによって、
更なる混乱や紛争が勃発するのを避けたかったのだろう。
ともあれ、域内のキリスト教徒、特にカトリック勢力はこれに対して大いに失望した。

それでも、ようやく近代化・産業革命の波も訪れ、
幹線道路・鉄道敷設などインフラ整備や工業化が進み、
貧農国家から脱却の兆しが訪れたことは
この時代が齎したひとつの成果といえる。

さて、オーストリア・ハンガリー帝国が最も苦慮したのは、
何よりもムスリム・カトリック・セルビア正教という異なる民族的・宗教的意識をもった
3つの勢力を、いかに平和裡に統治するかということだった。
これは現代のボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国まで続く共通の課題である。

20世紀に入ると各勢力の民族意識は高潮し始める。
対立が起きることを懸念した帝国は
ボシュニャシュトヴォ(ボスニア主義)という概念を提唱し、
地域的な帰属意識の下に彼らを統合しようとしたが、
そこに為政者の作意を感じ取った民衆は
逆にますます各民族への帰属意識を高めていく。
各勢力はそれぞれの宗教共同体を基盤として
民族主義に根ざした政治結社を形成。
「ムスリム民族機構」(ムスリム)、「セルビア民族組織」(セルビア正教会)、
「クロアチア民族連合」(カトリック)などである。

また、隣接するセルビアやクロアチアが
それぞれにボスニア・ヘルツェゴヴィナの領有権を狙って
域内の各民族にプロパガンダを働きかけたことも、
こうした民族意識の高まりを後押しした要因となった。
この地のカトリック信徒も、信教でいえばオーストリア・ハンガリー帝国もカトリック国なのだが、
彼らの中で中心的役割を担ってきたボスニア・フランチェスコ会士が
元来クロアチア教区の教会と強い結びつきを持ち、教育もクロアチア語で行ってきたことなどから
クロアチア人勢力と結びつくことになる。
セルビア正教会も本国セルビアからの大セルビア主義に則り、
ボスニアがセルビア人の国であることを主張していた。

そして、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの
クロアチア人勢力とセルビア人勢力は、ムスリム勢力の取り込みにかかる。
オスマン帝国の手から切り離されたムスリムは、独自の共同体を持つ一方で、
政治的には大きな浮動票集団のようなものでもあった。
セルビア人系ムスリムやクロアチア人系ムスリムは、宗教共同体から離れ
それぞれの民族組織に属したりもした。
こうして、宗教・民族主義・政治思想という異なったコードが絡み合い、
時に同盟を組んだり、時に反目しあいながら、彼らの勢力図は作り上げられていく。

そして1908年。混乱するボスニア情勢の打開に向け、
オーストリア・ハンガリー帝国は正式にボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合を宣言すると、
大セルビア主義を掲げるセルビアが猛反発。
域内のセルビア人勢力も帝国に猛烈な反感を抱くようになる。
この事態は帝国とセルビアの外交的な軋轢を深めることとなったが、
表面的にはすぐに収束したかに見え、
1910年には帝国によって立憲議会制がこの地に初めて齎される。
しかし、「ヨーロッパの火薬庫」とまで呼ばれたバルカン半島が、このままで済むわけがなかった。
民族主義に根ざした各勢力の対立は激化する一方となり、
1914年、やがて全世界を巻き込む事件が起こる。

地下組織の下部団体、青年ボスニア党のセルビア人青年が
サラエヴォでオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントを銃で暗殺(サラエヴォ事件)。
逮捕された実行犯8人のうち、7人はセルビア人。1人はムスリムだった。

オーストリア・ハンガリー帝国は犯人の調査・情報の引渡しなどを巡って
セルビアと交渉するが、その進捗に業を煮やしやがて宣戦布告。
すると「これは汎スラヴ主義の危機である」とロシア帝国がセルビアを支援すべく参戦。
あとは当時の同盟関係や各国間の禍根が連鎖反応を起こし、
連合国側(セルビア、ロシア、フランス、イギリス、日本、イタリア、アメリカ)と
同盟国側(オーストリア・ハンガリー、ドイツ、オスマン・トルコ、ブルガリア)とに分かれ
2大勢力が全世界で4年間に渡り激突した(第1次世界大戦)。

戦時中のボスニア・ヘルツェゴヴィナでは
オーストリア政府によるセルビア人への弾圧が行われていた。
約5千人以上が強制収容所に送致、利敵行為やスパイ・反逆罪の容疑で250人が処刑された。
市街ではムスリムやクロアチア人によるセルビア人への排斥運動や暴力行為も起こっていたという。

そして、1918年11月にオーストリアが降伏し第1次世界大戦が終結すると、
翌年9月、サン・ジェルマン条約によってボスニア・ヘルツェゴヴィナは
新国家「セルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国(セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人の王国)」に
組み入れられる。
セルビアが戦時中に提唱した「ユーゴ(南)スラヴ人による統一国家」の理念によるもので、
カラジョルジェヴィチ・セルビア国王を戴く立憲制・民主主義・議会制の国家として建国。
「ユーゴスラヴ人による統一国家」に、セルビア人は「大セルビア主義の実現」を、
スロヴェニア人やクロアチア人は「同系民族同士のパートナーシップによる統一」を夢見た。
この認識の差異が後に更なる軋轢を生み、
そして更に恐るべき第2次世界大戦へと突入していく。

さて、続きはまた今度。

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