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2008/09/25 モスタル:山腹より 2 (ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史 4)
街の中央部分。
左手の山の頂には巨大な十字架が建てられている。
山腹を少し移動していると、
草木の茂みから突然おばさんが現れた。
誰もいないだろうと思っていたので度肝を抜かれたが、
向こうも随分驚いていた様子。
小脇にカゴをかかえていたので
木の実かハーブでも摘み取っていたのだろう。
こんなところまでお疲れ様です。
やっぱり地雷の心配をしてきたのは杞憂だったのかなあ・・・。
2005年8月27日
さて、随分前の続きになるが、ボスニア史の近代篇を適当に。
【セルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国〜ユーゴスラヴィア王国】
第一次世界大戦後、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは
「ユーゴ(南)スラヴ人による統一国家」として発足(1918)した
「セルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国」に編入される。
当初はセルビア王ペータル1世を君主とする
立憲議会制を基軸とする統治が図られていたが、
セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人にムスリムといった各勢力の政党、
そして新勢力であるユーゴスラヴィア共産党が入り乱れる議会は機能不全に陥ることも多かった。
そんな中、1921年に即位したアレクサンドル1世は独裁体制を徐々に作り上げ
1929年には議会を停止、制定憲法を無効とし、国王独裁を宣言。
国名を「ユーゴスラヴィア王国」とした。
この時期にはセルビア人主導の中央集権的な国家体制が組まれ、
ムスリムやクロアチア人に対する抑圧政策が敷かれていく。
国王の独裁宣言に伴い、宗教や民族を編成原理とする政党や共産党は非合法化されたが、
クロアチア人極右組織「ウスタシア」や共産党などは
変革の期を窺いつつ地下活動を続けていた。
(ムスリム勢力は従来の既得権を少しでも維持しようとしたのか、
ほとんどの場合は体制側に組することが多かったようだ。)
そして1934年、アレクサンドル1世はマルセイユで射殺される。
諸説あるが、ウスタシアによる暗殺であったと目されている。
これを受け、アレクサンドル1世に次いでペータル2世が11歳で即位。
幼少であったため摂政パヴレが執政に当たり、
クロアチア人への抑圧政策は緩和され、自治権もある程度認められる方向へと転じたが
クロアチア人の独立志向は高まる一方であった。
そして、様々な不安定要素を抱えたまま時代は第2次世界大戦へと移行していく。
【第2次世界大戦】
1941年、ナチス・ドイツがユーゴスラヴィア王国を枢軸国陣営に取り込もうと仕掛ける。
すでに隣接国であるハンガリー、ルーマニア、ブルガリアが落ち、
イタリアからはアルバニア、ギリシャへとバルカン半島全土に対して侵攻の手が伸びる中、
ユーゴスラヴィア王国の選択肢は限られていた・・・かに見えた。
同年3月25日、時のユーゴ首相ツヴェトコヴィチは三国同盟に調印したが、
国民の多くはこれに大反発。
26日から27日にかけて空軍将校による無血クーデターが行われ、
国王ペータル2世の名においてツヴェトコヴィチは解任。
ドゥシャン・シモヴィチが新首相に任命され、三国同盟への加盟を反故とした。
この知らせを受けたヒトラーは激怒しユーゴに対する軍事侵攻を決定。
4月6日から3日間に渡るベオグラード空爆が行われ、
ルーマニア、ブルガリアからはドイツ軍、アドリア海沿岸部からはイタリア軍が侵攻。
17日にはあえなく降伏し、ペータル2世は亡命先のロンドンで
ユーゴスラヴィア亡命政府を樹立した。
ドイツ占領下のユーゴスラヴィアは二つの傀儡政権によって分割統治される。
クロアチア人極右組織ウスタシアを主体とするファシスト政権「クロアチア独立国」と
セルビア人将軍ミラン・ネディチによる軍事政権「セルビア救国政府」である。
しかし、「統治」といってもその内実は混迷を極めた内戦状態であった。
クロアチア独立国はこの状況に乗じて、ユダヤ人虐殺の他にも
ユーゴ王国時代の抑圧に対する復讐としてセルビア人に対する虐殺を開始した。
その犠牲者は18万人とも70万人ともいわれ
(政治的な見解から現在でも大きな開きがある)一定ではない。
また、自陣営の勢力拡大を考えたクロアチア独立国は、ボスニア・ムスリムを
「民族的にはクロアチア人」と規定し、ムスリムをもその勢力に組み入れた。
セルビア人に対する迫害や虐殺は、民間レベルでも行われたという。
そして一方、こうした枢軸国の占領政策に対するレジスタンスとしては二つの勢力があった。
ユーゴ亡命政府を後ろ盾とするセルビア人の抵抗組織「チェトニク」と、
社会主義政権樹立を目指すユーゴ共産党書記ヨシップ・ブロズ・ティトー率いる「パルチザン」である。
当初、この二者はユーゴ解放に向けて共同戦線を張ったが、
パルチザンがユーゴ亡命政府の王権を認めない立場を取ることから
その連繋はすぐに崩壊し、チェトニクはセルビア救国政府と一致してパルチザンの撃退に移る。
しかし、チェトニクの路線変更にはもう一つ理由がある。
レジスタンスの鎮圧に向け、ナチスはセルビア人に対し
「ドイツ兵1人の殺害に対し、セルビア人100人を殺害する」との報復措置を掲げたからでもあった。
事実、1941年にはゲリラへの報復措置として
児童を含む数千人のセルビア人一般市民がナチスによって虐殺されていた。
だが、チェトニクの変節は結果として
連合国からの支援と民衆からの支持を失うこととなり、その勢力は衰えていく。
一時は四面楚歌のパルチザンであったが、
主にボスニア・ヘルツェゴヴィナの各地でゲリラ戦を展開する一方、
「友愛と団結」をスローガンに掲げた宣伝活動を継続し、
多くのセルビア人やクロアチア人、ムスリムの支持を獲得していく。
1943年には臨時政府の樹立を宣言し、連合国からの支援を受けるようになる。
ティトーのパルチザンは、国際的には非常に微妙な位置にあった。
ソ連のスターリンは、独ソ戦を攻略するためにも連合国側との連携を重視するあまり、
「共産圏拡大の意図」を隠すためにティトーとパルチザンを公然と批判していた。
そして連合国側とも、ティトーがソ連からの支援も得ようとスターリンに接近したことから、
その関係が悪化することもあった。
戦時中の「自由主義」対「全体主義」という対立と、
戦後に顕現化する「資本主義」対「共産主義」の潜在的な対立という
それぞれ異なった次元の構造が絡み合あっていた。
しかし、最終的にはそれが戦後のユーゴスラヴィアの独自路線を支えることとなる。
1944年にはソ連軍と共同でベオグラードを解放するが、その後ソ連軍は即時撤退。
1945年にドイツ軍とウスタシアが降伏すると、支援のために駐留していた英米軍も撤退する。
多民族・多宗教・多言語で、歴史的にも多くの火種を抱えてしまったこの地域を
あえて抱え込むことは、東西の両陣営とも避けたかったのかもしれない。
ともあれ、100万人以上の死者と数百万人の負傷者を出すこととなった戦争の終結を迎えると、
ティトーはロンドンのユーゴスラヴィア王国亡命政権を否認し、
ユーゴスラヴィア連邦人民共和国の樹立を宣言。
ここに、ティトー率いる戦後のユーゴスラヴィアがスタートする。
(つづく)
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