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2009/11/26 モスタル:DON'T FORGET '93 (ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史 5)


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スターリ・モストを西側に渡り切ると、路傍には
迫撃弾の破片が打ち込まれた石に「DON'T FORGET '93」。
ちょっと演出過剰ではないかとも思うが、
東側のムスリム居住地にも、この文字が彫られただけの石が
お土産屋さんの並ぶ通りの端に置かれている。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立を目指し、
旧ユーゴ連邦軍(セルビア人勢力)を相手に共闘していた
クロアチア人勢力とムスリム勢力との関係に亀裂が生じ、
三つ巴で殺戮しあうという最悪の事態に陥った年である。
その状況を象徴するかのように、同じ年の11月には
今まさに自分が立っているこの橋、スターリ・モストが爆破される。

ようやく戦後に入ったボスニア史も
一気にこの時代まで進めることにしよう。

【ユーゴスラヴィア連邦人民共和国(後に社会主義連邦共和国)】
1945年にドイツ軍を一掃したパルチザンは、
社会主義体制下のユーゴスラヴィアを立ち上げる。
新しいユーゴスラヴィアは、その複雑さから次のように語られた。
7つの隣国(オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニア、イタリア)、
6つの共和国(スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、マケドニア、モンテネグロ)、
5つの民族(スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、モンテネグロ人)、
4つの言語(スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)、
3つの宗教(カトリック、セルビア正教、イスラム教)、
2つの文字(ラテン文字、キリル文字)を持つ
1つの国・・・。

各共和国や宗教コミュニティに対して一定の自由度を与えつつ
共産党政権下の国家統一を図る、それがティトーの描いた新しいユーゴスラヴィアだった。
究極的には相反する理念をも抱えている以上、その均衡の取り方には
多くの賛否が寄せられるとこるもあるとはいえ、彼はパルチザンを率いたカリスマ性を継続して発揮し、
その死に至る1980年までこの複雑多様な国家を纏め上げた。

終戦後、多くの東欧諸国は、共産圏の拡大を目論んだソ連の衛星国として
ワルシャワ条約機構に組み込まれていったが、
ユーゴスラヴィアはその独自路線がソ連から批難され、
1948年に東側陣営から追放される。
そしてこれが、ユーゴの更なる「独自路線」を後押しすることになる。
例えば、ソ連勢力拡大への対抗策としてアメリカが提唱した
マーシャル・プランを受け入れるなど、
ユーゴは当時の東欧にあった社会主義国としては特異な存在となっていく。

冷戦時代のユーゴスラヴィアは、西側のNATOにも東側のワルシャワ条約機構にも属さない
非同盟主義によってその荒波を乗り切った。
両極のどちらにもつかない、あるいは
両方の一部を取り入れるといった折衷的な方針は
外交のみならず内政においても様々な面でみられた。
東西冷戦構造の間に置かれた多民族国家をまとめるには、こうした手法しかなかったのだろう。
しかし、このバランスをうまく保つことができたのは
偏にティトーの持つ強大なカリスマ性によるものだったといえる。
この時代には他民族間での結婚なども増え、
その子供たちは自らをどの民族名でもなく「ユーゴスラヴィア人」と称するようにもなった。
しかしティトー晩年以降、国民の求心力を失ったユーゴスラヴィアでは
その複雑な構造における様々な矛盾が、社会問題となって表面化していく。

たとえば経済面では、自主管理社会主義という他の共産主義国とは異なる体制を採用していた。
これは、経済・生産活動の主体を国有ではなく「社会有」とし、各企業の組合によって
それぞれの経営が行われるというもの。
経営主体が労働者の組合という点では社会主義的だが、各企業の経営が自主に委ねられる点では
資本主義の要素も持ち合わせており、東欧諸国の中でも西側の資本を早くから取り入れたりもしていた。
しかし、市場原理を前提としてこそ成長が見込めるこのシステムは
社会主義体制のユーゴにおいては80年代に頭打ちとなり、深刻な経済危機を迎えることになる。
また、経済状況の地域格差が生じたことが各共和国間での不和をもたらし、
最終的にはユーゴ解体の機運を高めさせる要因の一つとなった。

こうした連邦内の対立は、それぞれの民族意識の高まりへと繋がっていく。
ティトー時代のユーゴは、社会主義国としては
言論・思想の自由が比較的に認められていたほうではあったが、
過度に民族主義を煽るような言論は封じられていた。
他の共産主義国同様に粛清も行われ、多くの民族主義者が西側に亡命してもいる。
ティトーはそれだけ民族主義思想の高まりを危惧していた。
近代以降いくつもの血生臭い対立を経てきた多民族同士を一つの国家のもとに統べるには
可能な限りそうした声を排除するしかなかったともいえる。
しかし彼の死後、この抑圧に対する反動が民族間の対立感情を更に増進させてしまう。

ティトー没後のユーゴスラヴィアでは、各共和国や自治州の共産主義有力者が
各地の指導に当たることになる。
それでも1984年のサラエヴォ冬季五輪では、
ティトーの掲げた「友愛と統一」という理念がその死後も受け継がれていることが内外に示された。
だが、80年代後半には経済情勢の悪化に加え
東欧諸国の脱社会主義・民主化が相次ぐなど、国の内外から変革の機運は醸成されていく。
1990年にはユーゴスラヴィアも民主化し、各共和国で複数政党による選挙が行われた。
この結果、各共和国で民族主義寄りの政党が政権を獲得する。
その折、ユーゴスラヴィア体制守旧派のセルビアがコソヴォ自治州の併合を強行しようとするが
コソヴォは猛烈に反発する。これがユーゴ紛争の火種となる。
1991年にはスロヴェニアとクロアチア、マケドニアが独立を宣言。
そして1992年にはボスニア・ヘルツェゴヴィナも独立宣言し、それぞれが
ユーゴ体制守旧派のセルビア、モンテネグロ2国と衝突。泥沼の紛争が長く続くことになる。

【ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争】
自民族が人口のほとんどを占めるスロヴェニアやマケドニアは
比較的早期にユーゴスラヴィアからの独立を達成する。
しかし、近代以降セルビアと何度も衝突したことのあるクロアチアや
多民族のモザイク地域であったボスニア・ヘルツェゴヴィナでは1995年まで紛争が続く。
一般市民に対する虐殺や「民族浄化」と呼ばれる異民族女性への強姦・強制出産など、
「言葉を失うとはかくや」という事態にまで発展し、約20万人の死者と200万人の難民が発生した。
当時の報道などを記憶している人も多いのではないかと思う。

この紛争ではボシュニャク人・クロアチア人・セルビア人という3つの勢力が争いあった。
以前にも触れたが、もう一度それぞれの背景や動向を大まかに整理してみよう。

・ボシュニャク人勢力:ボスニア域内のムスリム。民族単位というよりボスニア・ヘルツェゴヴィナという地への
帰属意識を強く持つ集団といえる。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ独立の主流派。
・クロアチア人勢力:ボスニア独立派ではあるが、その目論見のためにボシュニャク人勢力と同盟を組んだり
そうかと思えば寝返ってセルビア人勢力と手を結んだりする。クロアチアからの支援という後ろ盾を持ち、
一部には「ボスニア一帯をクロアチアに帰属させよう」という思惑を持つ極右派もあった。
・セルビア人勢力:旧ユーゴ体制守旧派。セルビア人優位となっていた旧ユーゴスラヴィア連邦からのボスニア独立に
真っ向から反発。ボスニア独立宣言後は、ボスニア北東部のセルビア人地域で構成する「スルプスカ共和国」を樹立。
セルビアはこれを支援し、ボスニアをセルビア領に組み込もうとする。

開戦当初はボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力がボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立を求め
セルビア人勢力に対して共闘していたが、セルビア人側が領内の6割以上を制圧。
1993年、制圧地の権限争いからボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の同盟に亀裂が入り、
これをきっかけとして双方が対立を始める。クロアチア人勢力は一時的にセルビア人勢力と同盟を組み直し、
「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言してボシュニャク人への攻撃を始めた。
モスタルのスターリ・モストは、このときの砲撃戦によって破壊される。

ボシュニャク人勢力は一気に劣勢に立たされることになったのだが、
ここでいきなりアメリカがクロアチア人勢力に外圧をかけて
ボシュニャク人勢力との再同盟を組むように仕向け、1994年には元の鞘に納まる。
そして彼らへの支援としてNATO軍によるセルビア人勢力とセルビア本国に対しての空爆が始まり、
アメリカからの軍事援助も加えられ形勢は一気に逆転していく。
この間、情報戦も繰り広げられていた。
セルビア人勢力による民族浄化や虐殺ばかりがスポットを浴びて世界中に報道され
「セルビア=悪」という一方的なイメージが世界中に植えつけられた。
後の調査では、3勢力共々に残虐行為を行っていたことが明らかになっている。

それでも食い下がるセルビア人勢力は
領内に展開していた国連保護軍兵士を人質に取りNATO軍を牽制。
兵士の保護を最優先としたいイギリスやフランスと、空爆を強行しようとするアメリカの間で
対立が生じ、NATO内も膠着状態に陥る。
民族間対立、憎悪の連鎖、民族浄化、大国の利権、無力な国連、情報操作etc.
およそ国際社会に立ち現れるありとあらゆる問題を掻き集めたかのような、
・・・いや、そうでない紛争など一つもないのだろうけれど、
ともかくもこの未曾有の紛争は1995年の秋にようやく終結する。
NATO軍によるセルビア人勢力への大規模空爆が最後通牒となって
セルビア人勢力もようやく和平交渉のテーブルにつき、
国連の調停の下デイトン合意が調印され
「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」という新しい独立国が満身創痍で歩み始める。

2005年8月27日

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